女院の存在意義と平安時代の娘相続 白河院と中宮・璋子の噂の真相
内親王の女院は、天皇家の財産を外に出さない為に作り出された存在ではないか、という話。
『平家物語』にはたくさんの女院が登場するが、フィクションではなく実在の方々だ。
そもそも女院とはどういう方かというと、「院」または「門院」の称号を受けた女性である。
一条天皇が母である皇太后に対して「院」の称号を贈り上皇に準ずる待遇とした親孝行から始まったようだが、次第に国母か否かにかかわらず太皇太后や皇后といった高い身分の后妃にも贈られるようになる。
白河院は天皇の配偶者だけでなく天皇の娘である内親王にも院号を授け、鳥羽院の皇女で大富豪となった八条院・暲子内親王に至っては形だけの后位すら経ることなく女院になったため、後白河院の治世ではあっちにもこっちにも女院がたくさん‼️ということになったらしい。
何だってそんな女院がいっぱいになったかと言うと、
平安時代の相続権は主に娘にあったからではなか。
もう少し詳しく書いていきたいと思う。
院の称号というのはただの飾りではない。
上皇待遇とするだけの財政基盤が与えられ、女院庁を設置して別当などの役人も配置される。
女院の範囲が拡大したのは、天皇の妃に加えて娘も院号の対象とした白河院から。
それまでは摂関政治で天皇の母方の親戚が政治を担っていたが、白河院は院政によって皇族に政治権力を取り戻した。
その過程で、財政基盤となる荘園管理を刷新(?)した結果、天皇家は莫大な資産を有することになる。
現代の感覚だと、そのまま次の天皇が相続すればいいじゃん!と思うが、母系社会を基礎とする平安時代はそうはいかない。
母系社会は母から娘に財産が相続され、父系社会は父から息子に相続される。
私たちは父系社会に生きいて、何となく父から息子に相続されるのが当然のように思っているが、少なくとも平安時代の貴族社会では父母の財産は娘が相続したそうだ。
(母系社会である平安時代を研究する時、母が誰かが大事なのに、母に関する記述が手薄で難儀するとかしないとか。)
白河院が皇位を譲った堀川院、次の鳥羽院に資産も継承させたかったかどうかはわからないが、少なくとも天皇家の資産を外に出さないことを目指したはずで、具体的には養女にした待賢門院・璋子を鳥羽院の中宮とし、璋子に相続させた資産を鳥羽院の管理とする形で実現したのだと思う。
ウキペディアにも記載されているが、璋子と白河院は特別な関係で、璋子の子・崇徳院は実は白河院の息子ではないか、といかにもな感じの下世話な噂があったようだが、そんなヘンな噂が立つくらい白河院にとって璋子は大事な存在であった証拠とも考えることができるし、璋子と摂関家の婚姻に難色を示したのも説明がつく。
天皇家から財産を出したくないのに、養女の璋子が摂関家の息子と結婚したら、璋子が白河院から相続する財産は摂関家のものになってしまうわけで、そんな結婚に賛成できるはずがない。
白河院はの媞子内親王に院号を授けたが、悲しいことに媞子内親王は若くして亡くなってしまう。
先に書いた通り、女院になると女院庁という官僚機構を有する一つの組織ができる。
白河院は莫大な資産を娘に相続させるにあたり、その資産管理を行う実務方として女院庁を設置し、今で言う宮家の立ち位置にしたかったのかな〜などと想像する。
(この時代は宮家は存在しなかったらしい)
白河院の構想(?)は孫の鳥羽院の時に花開き、八条院という極めて政治的存在の女院が出現したのだと思う。